上山市 思川決闘の場(浄瑠璃坂の仇討)


2018/05/11

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寛文8年2月19日(1668年3月31日)、下野国(いまの栃木県)宇都宮藩の藩主奥平忠昌が、江戸汐留の藩邸で病死した。 忠昌の長男の奥平昌能は、忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対し「いまだ生きているのか」と詰問、これが原因で杉浦はただちに切腹した。これを追腹一件と言う。 4代将軍徳川家綱のもとで文治政治への転換を進めていた江戸幕府では、殉死制禁 奥平家に対し2万石を減封して出羽山形藩9万石への転封に処し、殉死者杉浦の相続者を斬罪に処するなど厳しい態度で臨んだ
ここより前の写真が『日本三大仇討「浄瑠璃坂仇討」の思川決闘の場』で、ここからは阿弥陀地の『首洗い井戸の話が残る阿弥陀堂』
忠昌没後14日目には、奥平内蔵允が、法要への遅刻を「腰抜け」となじった奥平隼人を武士の一分を立てるためと斬りつけた事件(興禅寺刃傷事件)が発生
憤慨する内蔵允が隼人に向かって抜刀したが、返り討ちにあって怪我を負ってしまった。 居合わせた兵藤玄蕃(1000石取)などの仲裁により、双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となった。だが、その夜、内蔵允は切腹する。
内蔵允の子源八郎とその母は処払いとなった。相手の奥平隼人も処払い 先の追腹一件により、藩主奥平昌能が山形に移封され、隼人の弟奥平主馬介は家老として山形へと従った 内蔵助一族は源八郎を中心に奥平隼人一族への復讐の機会をうかがっていた。この動きを察知した主馬介は大勢の家臣を連れて隼人の救援のため江戸に向かおうとした。 源八郎はまず主馬介を討たんとして赤湯に潜み機会を待った。寛文九年七月、主馬介は家臣二十五名を率いて山形を発ち、藤吾原の思川に差し掛かった。
そこへ待ち伏せしていた源八郎ら十五名が襲い掛かる。
以上『浄瑠璃坂仇討』前哨戦『思川決闘』レポート了