上山市 思川決闘の場(浄瑠璃坂の仇討)

  

そこへ待ち伏せしていた源八郎ら十五名が襲い掛かる。源八郎は大声で主馬介に名乗りをあげ、死闘がくりひろげられた。源八郎の叔父奥平伝蔵と夏目外記の奮戦でついに主馬介は討たれ、阿弥陀地の阿弥陀堂境内の井戸でその首は洗われた。
以上『浄瑠璃坂仇討』前哨戦『思川決闘』レポート了
Wiki と案内板の文章を適当につなぎあわせました
その後の本戦『浄瑠璃坂仇討』は、勝手に調べてください

おまけ
ここで、話題になった奥平氏は、山形市千歳山に木の大仏を建立した殿様だったことを、知る人は知っています。
2007年弊サイトほとぐらふ『平清水 平泉寺』に書いていました

江戸時代の初期、時の山形城主奥平昌章が、寛文12(1672)年に現在の千歳山公園に建立した10mにもなる大仏と大仏殿が存在していました。しかしメンテナンスが悪かったのか140年後にはかなり荒廃し、管理者?平泉寺の和尚さんが中心になり文化九年に(1812)大仏殿は再建されました。20年の時の流れを経てもったいないことに天保三年・(文政十五年)(1832)十一月、火災のため大仏殿や大仏は焼失したそうです。

 山形名物をなくしちゃいかん。前述の和尚さんの倅さまは天保十一年(1840)から再建にとりかかりました。カンパを募りながら大仏を作らせ頭が出来ましたが、いかんせんお金が集まらず計画は頓挫してしまったとのことです。当時の山形の殿様は水野様か?時代は天保の改革のまっただ中、その中心人物が親戚になる老中首座水野忠邦であり、質素倹約をかかげた政策の中、箱物資金は出せなかったのでしょう。
 その頭について書いてあるサイトはたった2つだけ。平安時代の作といわれる仁王像も同じ場所にあるんだから、けっこうな観光資源なんじゃあないでしょうか。しだれ桜を見て奥の大日堂まで行く人は少ないようでした。

以上、おまけ了