白鳥十郎長久 血染めの桜・首洗い石鉢

  


 この事を義光公が聞いて、志村九郎兵衛を使者として、最上の系図と耳白の鷹一居を贈ろうと思い、国の乱れた折なので越後廻りで上京させました。そしてご機嫌を伺って上申しましたところ、遠国からの使者ということで召し出されました。その上で最上家代々の系図をつぶさに検討されて、「最上出羽守」のお墨付を下さいました。

写真は『霞城のさくら』公園の北門、西門のお堀沿いのソフトボール場の土手にあり、この近くに『血染めの桜ら』の由来の看板もつい最近まであったそうです。それは、昭和32年に伐採されて、幹(枝)片が、谷地のどこかに残されているようです。近年、最上義光を山形のヒーローにしようとする風潮からか、由来板は撤去されたものと見られます