鳥海月山両所宮日飛神社


2018/12/02(日)

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鳥海月山両所宮(ちょうかいがっさんりょうしょのみや)は、山形県山形市宮町にある神社 近代社格では県社、現在は神社本庁の別表神社。別称は「吉事宮」「武門吉事宮」。参拝すれば、御朱印を頂ける。 鳥海山(鳥海山大物忌神社)の神である倉稲魂命と、月山(出羽三山・月山神社)の神である月夜見命を祀る。 社伝では、源頼義が安倍貞任討伐にあたって飽海郡吹浦の鳥海山両所神社で鳥海・月山の両神に戦勝祈願に戦勝を祈願し、勝利したので、
康平6年(1063年)、その報賽として最上郷山形に社殿を造営して分霊を勧請、国家泰平・武門吉事の神と称したのに始まると伝える。 天正年間(1573年-1591年)、当地の領主・最上義光は、従来の祠官を廃して真言宗成就院を別当と定め、社領を寄進した。 .「藤太の休石」の伝説 江戸期には別当である成就院(560石)の他、その輩下に社陣21人(129石)があり、別に天台三ヶ寺として、如法堂(68石)、護摩堂(85石)、内御堂(50石)が、両所宮に奉仕した。
その総石高全てが当宮の歳入とは考えられないものの、かなりの規模に達することは間違いない。 本殿は義光の時代に大修理が加えられたが、寛永年間(1624年-1645年)に焼失し、享保年間(1716年-1735年)に再建されたものという。 明治6年(1873年)に郷社に列し、明治12年(1879年)8月に県社に昇格。戦後の昭和36年(1961年)に別表神社に加列された。例祭は8月1日。 特殊神事として「ごくだめし(穀様)」がある。これは、旧暦7月1日早朝に飯・胡瓜・茄子・粟穂・稲穂を紙に包んで土中に埋め、翌年の旧暦6月末日に掘り出して豊凶を占うものである。
境内の金井の泉は、金井の庄の起源とされ、また、金売吉次の金洗いの井戸とも伝えられている。 入口の山門は、天明3年(1783)6月の建立で、高荘な楼門であり、現在は随神門と称される。 また、境内の城輪神社の社殿は、桃山時代の作。本社本殿含めて、いずれも市の有形文化財に指定されている。 後三年の役の時、鎌倉権五郎景政という武将が左目を射抜かれながらも戦い続け・・・
直近の数値ではないが、平成21年(2009年)において、初詣の参拝客は11万人。山形県内で10万人を超えるのは当社と、山形県護国神社のみ。
「金売吉次」の伝説 藤太親子がこの泉で金を洗ったので「金井水」と称するようになり
金井の井戸から湧き出る泉は、清水を満々と湛えた大きな池となり 国立国会図書館 レファレンス協同データベース 
から引用
以下、主人公、次郎と、生き字引、オー爺さんとの会話で、『ニッピ』とか『日飛神社』について 「ひとを化石みたいに言うんじゃないよ。『ニッピ』っていうのは『日本飛行機』を短くした呼び名
「その通りですね。さすがオー爺さん。なんか、『ニッピ』についておもしろいエピソードはないですかね」 「おもしろいって言っちゃ不謹慎になるが、ワシが幼少のみぎり、その日飛が、火事になったんじゃよ。我家から南の空が真っ赤に染めるのを記憶している〜 「それでは、山形市長が書いていた宮町の両所宮にあるという日飛神社について、由緒を知りませんか」 「日飛神社は工場内にあり、戦後山形西高がその跡地に建築されたんだけど、そのまま山形西高校内にあったらしい〜
「ボールトは飛行機の重要な部品だったから、日飛の社員と田○社長が、親しかったんでしょうかね」 「現在も営業している日本飛行機株式会社の上層部のかたがたが、一年にいっぺん、お参りに来るらしいから、詳しいことは、その時、聞けば、いいんじゃないかね」 「いやいや、そこまで苦労して知るほどのこともないですよ〜」  たしかに、次郎も加齢のため『歯がない』『しがない』歳になりつつあった。
ということで、もの知りオー爺さんのお話、ここまで
二つ並んだ神社の向かって右側が日飛神社で、左側が稲荷神社とのこと
『日飛神社』の案内は、どこにも無くて、現在は『日枝神社』になっているのだそうだ。
日本飛行機の飛行場は、ちょうど漆山にある山形刑務所の場所にあって、オー爺さんの親父さんは、当時、勤労奉仕に行っていたそうです。
両所宮、日飛神社レポート了