寒河江戦役(桑名藩の戊辰戦争)

  


中山町「下川の渡し場」 ここから新政府軍は最上川を渡って寒河江に侵入してきた

話のイントロダクションとして、庄内藩の戊辰戦争の経緯

 奥羽越列藩同盟の要請で、白河口の戦いの応援に向かっていた庄内藩二番大隊は、北斗七星を逆さに配した「破軍星旗」の軍旗を掲げ、指揮していたのが、26歳の酒井吉之丞、人よんで庄内藩の無敵の鬼玄蕃です。ちなみに「七星旗」とも呼び、その銘柄の日本酒が販売されています。
 私は佐藤賢一の『新徴組』を読んでいなかったので、つい最近まで酒井吉之丞の名前すら知りませんでした。したがって、坂本竜馬や西郷隆盛に比べれば、悔しいながらマイナーな存在と言わざるを得ないでしょう。
 司馬遼太郎の小説が、現在の戊辰史を作っていると言われますが、多分、彼も書いていないし、吉之丞の祖父の酒井右京が、勤皇派の人物で、左幕の主流派によって、切腹させられたことから、酒井家のまわりの家来衆は、幕末の出来事を、あまり、華々しく世に広めるようなことはしなかったのだそうです。
 話は戻り、奥羽越列藩同盟に加盟していたはずの久保田藩では、滞在していた、西郷隆盛の友人、参謀、北村有起哉が演じた大山格之助が、いろいろ陰謀をめぐらして、仙台藩の派遣した使者と盛岡藩の随員10名を、7月4日、全員殺害し、同盟から脱退しました。
 その報が二番大隊、鬼玄蕃に伝わったのは、楯岡に宿泊の時
「おのれ、佐竹め、白河口に向かえば、久保田藩から鶴ヶ岡城を、攻められて、南から薩摩、北から久保田と、挟み撃ちされてしまう。会津への援軍よりも、今は、鶴ヶ岡城の防衛をしなければいけない」
 と、踵を返し、7月11日早朝に楯岡を出発して、奥州街道を、北上、夕方舟形に着き宿陣した。一番大隊は天童で二番大隊の使者に会い、同盟軍が大敗したこと、新庄が裏切ったことを聞いた。そこで一番隊も援軍のために北上した。
 文章が長くなると、面倒で、いやになるので、勝敗(勝ちが○負けが▼)年月日と秋田戦争の個々の戦闘名を列記します。

▼1868/ 07/11 及位、金山の戦い。戦闘中に新庄藩が裏切り敗退
○1868/ 07/13 舟形の戦い 
○1868/ 07/14 新庄藩を攻略 新庄城落城 戸沢正実、秋田へ亡命
○1868/ 07/25 塩根坂峠の戦い
○1868/ 07/28 矢島藩を攻略
○1868/ 08/06 本荘藩を攻略
○1868/ 08/08 亀田藩を攻略
○1868/ 08/11 横手藩を攻略
○1868/ 08/23 鼠ヶ関の戦い
○1868/ 08/26 堀切峠の戦い
○1868/ 09/01 鼠ヶ関で総攻撃を受けるが撃退
▼1868/ 09/11 関川口の戦いで敗戦 糠塚山の戦いで敗戦
▼1868/ 09/14 米沢藩より謝罪周旋の書が届く
○1868/ 09/16 刈和野の戦い

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