寒河江戦役(桑名藩の戊辰戦争)

  


『九月二十日払暁、山形を発した薩軍は長崎に達し最上川を渡河』と、あるので、ここから、最上川を渡って、寒河江に攻め入ったのでした。
 桑名藩士は、なぜか九月十九日に、寒河江本願寺に宿泊していて、これからまるまる一日の戦闘に突入することになろうとしている

ここに至る桑名藩の戦争の経緯は

1868/ 08/13 若松城下の戦い
1868/ 08/24 塩川(若松北方11キロ)に後退
1868/ 09/08 米沢藩、転向して西軍先鋒となり福島城下に入り「ただちに降伏されたし」と云う。改元し「明治」となる
1868/ 09/09 定敬公、福島を発し仙台に向う(このため、2日後に到着する立見鑑三郎、町田老之丞らに率いられた桑名本隊には逢えず)
1868/ 09/11 桑名本隊は米沢へ向う関門の通過が出来ず、福島城下に入る
1868/ 09/13 桑名本隊は庄内中村隊と共に庄内に向う。桑名本隊 260名 庄内中村隊 250名
1868/ 09/14 白石
1868/ 09/15 川崎
1868/ 09/16 笹谷街道へ入り、途中笹谷峠の難所を越え関沢村で昼食。斥候を出して山形方面を探索、夕方山形城下に達した。
1868/ 09/18 18日朝、
 山形を発した桑名本隊は長崎に到着し宿陣、庄内中村隊はその手前船町へ宿陣する。西軍は山形に集結しつつあり、ここ平坦地では守りに適せず、夕方一里後方の寒河江まで後退。ここで手配りし、庄内山田隊(四番銃隊)と桑名町田隊(神風隊)は左沢方面守備、さらに庄内栗原隊(六番銃隊)は大井沢守備に分派。結局、寒河江本道に陣したのは桑名雷神致人二隊、庄内三番五番銃隊のわずか四小隊三百名強であった。
 18日、米沢軍を先鋒とし米沢城下を発した西軍薩摩藩主力(総督黒田了介)二千五百は、十九日山形に到着した。薩摩二番遊撃隊、十番隊、外城三番隊、番兵二番隊、兵具方二番隊、兵具方三番隊の計六隊。これに二番砲隊右半隊と砲三門、加治木大砲隊左半隊と砲三門、すなわち砲六門と兵千百六十人。米沢軍は藩主上杉茂憲自ら兵九百を率いて柏倉に宿陣し、これに上山、新庄の兵、尾州一小隊が加わる。

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