新徴屋敷・新徴組墓所


2007/04/08

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明治三年春となり藩では現在の鶴岡市大宝寺と道形の間、羽越本線の南北に亘って、新徴組の家屋を建てた。 一戸当り宅地一二〇坪畑地三〇坪の計一五〇坪の土地に長さ六間幅三間半、押入付六畳三重と板敷を加えた二十一坪 石屋根の平屋。 この地域は旧藩の煙硝蔵(火薬庫)があった処で、一番丁から六番丁までに区分され、その中に役所と道場があり、棟数は一三六棟であった。 明治の人々は家屋を新徴屋と呼び、敷地を含めて新徴屋敷、一三六棟の全域を新徴町と呼んでいた。
この町の当時の略図が現存しており、それには各棟の世帯主名が記載されている。
以上 凌霜史(武山省三氏編)より引用
地元らしいおばあちゃんに「新徴組のお墓どこですか」と聞いたら 「もっと行って貯水池から右にまがんの」って教えてもらい案内発見 梅祭りだし、佐藤賢一小説のブームで観光客いっぱいいるかなと思っていたが
誰もおらず。庄内の人はもう訪問してるからだななどと勝手に納得 新徴組墓地はひっそりと カメラマンを待っていたのだ 案内板の表
風化してしまったのもあるとの記述 全景 街方面 法印実美の碑
どなたさまなのかまだ不明
案内板の裏 信濃国牧野内勝三家来卒太夫子
佐々木貞三郎盛聖
石仏 法名の墓や実名の墓が混在しててどれがどれだかいまいち
加州領越中研波郡戸知村生 尾崎恭蔵の子 尾崎文太郎 これは案内でも「不明」になっているよう 加州領越中研波郡戸知村生
尾崎恭蔵
読もうとしたがダメでした
俗名死没年月日不詳
貞乗院至法妙覚大姉
武州比企郡志賀村生
新徴隊伍長水野俊一郎長男
水野令三郎年盈
やはり湯田川
竹林が多い
法印実美の碑 賽銭あげましたぞ 湯田川の隼人旅館が新徴組本部だった
新徴組士の書簡や弾薬箱などが残っており、新徴組に関する書籍や資料と共にロビーに展示してあります。 新徴組が湯田川温泉に来るきっかけとなったのは1868年2月15日、江戸市中の任を解かれ、庄内勝手方を命ぜられ、2月26日から順次庄内へ赴きました。 湯田川には、今も在往中に亡くなった隊士やその家族など20名の墓地があります。