新徴屋敷・新徴組墓所

  


当時の町割りの道路は現在も存続しており、千五百分の一任宅地図によって、当時の全域を確認することができる。その形は概ね矩形で東西約一八〇メートル、南北約三四〇メートルの六へクター余、明治の人々は家屋を新徴屋と呼び、敷地を含めて新徴屋敷、一三六棟の全域を新徴町と呼んでいた。

松ヶ岡開墾地は、明治5年旧庄内藩士3000人が開いた広大な畑地のある一帯です。
維新戦争後、明治新政府は諸藩の武士団を解散させようとしていましたので、大泉藩中老菅実秀は、廃藩置県・藩兵解隊に先んじて、大規模な養蚕製糸事業の創設と、開墾による桑園造成を企画し、士族集団を挙げてこれを実行することとし、松ヶ岡開墾が行われました。
 松ヶ岡では、明治7年までに311ヘクタールの桑園を造成、明治10年までに大蚕室10棟(明治8年4月に4棟、9年4棟、同年冬に2棟)を建設して養蚕事業を開始し、鶴岡に明治20年、製糸工場を、昭和10年に絹織物工場を建設しました。これらは、旧西田川郡役所や旧鶴岡警察署等の設計施工にあたった棟梁高橋兼吉の作で、上州島村の田島家の蚕室(上州島村式)を模したものといわれています。


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