馬見ヶ崎川筋堤防落成記念碑  
   
 
【馬見ヶ崎川筋堤防落成記念碑】碑文 ※カタカナをひらがなに改めて記載している

 馬見ヶ崎川は源を蔵王山に発し、東沢一体の渓流を併せ、環流して市の北端を過ぎ須川に合す。流域は凡そ四里余、本市及び東南村山二郡十ヵ村三千余町歩の田園に灌(そそ)き、又地下水は井泉となりて市郡数万人の飲料に供せらる。其の利此の如く多しと雖、その害も亦極めて大なり。今、安永年間より大正二年に至る間、被害の大なるものを挙ぐれば其の数二十余回、堤防の損害約五十余万円、田園邸宅其他の損害を加ふる時は、優に百万円を超過す。噫(ああ)、亦惨なりと謂ふ可し。損害此の如く甚(はなはだ)しきに拘らず、維新以前に在りては防水施設の見る可きもなく、明治二年七月の大水害に当り、時の政府は始めて全壱千両を支出し、流域関係の町村より役夫を徴発し、知県坊城俊章監督の下に天神裏より千歳橋に至る間に堤防を築造せり。俗に之を坊城堤と称し今猶ほ其の跡を存す。其の後明治二十三年に於ける水害の如きは、大小前後三回に亘り、堤防の欠(決)壊二千二百六十間、道路の破壊千六百六十間、宅地、田園の浸水百六十二町歩、人家の流失破損七十九戸、溺死者九名を見るか如き惨状を呈せり。是を以て従来の築堤方法を改め、天神裏より千歳橋に至る間に内堤千五百二十二間、外堤二千五間の両堤を築造す。此の工費実に金八万千七百円。