|
山形市薬師町方面(とか現在の緑町二丁目)にあったらしい、馬場とか競馬場が現在の山形市球技場になり、ここと護国神社との間に戦没軍馬慰霊碑が建っており、さらにその南側に【馬見ヶ崎川筋堤防落成記念碑】が建っております。 |
最後から3枚目の写真が、【馬見ヶ崎川筋堤防落成記念碑】で、細かい字がいっぱい書かれていて、読めれば、すばらしい史料だと思っていました。 |
馬見ヶ崎川は源を蔵王山に発し、東沢一体の渓流を併せ、環流して市の北端を過ぎ須川に合す。流域は凡そ四里余、本市及び東南村山二郡十ヵ村三千余町歩の田園に灌(そそ)き、又地下水は井泉となりて市郡数万人の飲料に供せらる。 |
爾来(じらい)小康を得たりと雖も、明治四十年の大水に堤防の破壊六百二十一間に及ぶ。依って従来の経験に徴(しる)し、復旧工事の外、特に堤脚保護の為、此の年始めて小段九百二十間を築造し、工費金四万九百八円を要せり。 |
|
本工事は最も重要なる本市未曽有の大工事なるを以て、市会議員中より七名の堤防工事委員を挙げ、内四名を常設委員と為し、以て工事上諸般の監督を委ね、鋭竟事業の進捗を図り、 |
大正五年四月二十七日
(篆題:山形県知事正五位勲三等小田切磐太郎)
以上、【馬見ヶ崎川筋堤防落成記念碑】碑文
|
1893(明26) 河原に丸馬場でる。
1913(大2) 八月二六〜二七日、大暴風雨により、大洪水 県庁前で水深八尺。内務省近藤技師に抜本的対策の究明を調査依頼。 |
サッカー少年たちが、汗を流す山形球技場には、国分寺薬師堂や護国神社などとともに、現在の山形市の根源となるような歴史が秘められていたのでした。 |