米沢市 農村文化研究所(置賜民俗資料館)


2026/04/04(土)

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こちらの存在は『戦争資料館』という名称に『山形』とかプラスしてHP検索すると、ヒットするので、そのサイトは5〜6年前ら、見て、知っていました。 米沢市サッカーフィールドには、この十年くらいコンスタントに数回は来ているのに、こちらにお邪魔するのは、今回が初めてであります。あとニ、三日で桜が咲く、いい季節ですが、この日は、あいにくの雨 たどり着いて駐車場に来ると、軽のトラックがいちだいあるだけで、休館日かなとも思いましたが、向かって右の部屋の明かりが点いていましたので、がんばって進入しました。オジさんが応対してくれて、めでたく拝観することが出来ました。 それで、自分のサイトを作成しようとしてますが、こういった昔のものにコメント書くのは、たいへんおこがましくて、無言で終わってしまうことが常であります。それでは寂しいので、今回はオヤジの随筆『馬の骨』の文章 を書かせていただきました。
 昭和六年九月十八日に、満州事変が起った。里でその事を知ったのは、かなりの時日が経過してかららであった。何せ、そのころ新聞を取っている家は一軒もなく、ラジオなどはあるはずもないので、知る由がなかったのである。 しかし予備役の分家のKに召集令状が来るに及んで、はじめて戦争を身近かなものとして認識したのであった。 満州事変は軍馬の値段を高騰させた。馬喰のつける値の五、六倍の二百五十円から三百円位の高額で軍馬は落札された。 浜口内閣の金解禁のため低落した米価が、上米一俵で七円位のころである。馬産地の小国盆地(最上町)で色めき立ったのはいうまでもない。
馬嫌いの人も急に馬好きになって、その世話に憂身を窶すようになった。長兄もその一人であった。  また鼬や山兎などの毛皮類も、よい値で売れるようになった。寒い満州の軍人たちが、必要とするであろうという思惑から、仲買人が買い漁った結果であった。 三兄と私は板で鼬罠を造って水路の傍などに仕掛け、晩秋の阜朝を見回った。よい鼬なら一円くらいで売れた。これは大人一日の労賃に匹敵した。  三兄は私と正反対で、器用で機敏であった。鼬罠も彼が造って仕掛け、私は手助けをするだけであった。この兄はまた不器用な私の不始末をよくかばってくれた。
例えば、川に鰍突きに行って、私がガラス箱をこわしてくると、それを猫のせいにしてくれた。雑魚を入れたままコガ(大桶)の上にあげておいたら、猫がねらってガラス箱を落してこわしでしまったなどと嘘をついた。〜 これは私のためばかりでなく、そう言わないとなかなかガラスを入れかえてもらえなかったからであるが、しかし私にとってはありがたい嘘であった。  彼はまた蝮とか雀蜂や地蜂の巣を取るのが好きであった。雀蜂に刺されて頭を南瓜のように腫らし、うんうん唸っていることもあったが、弱音を吐かなかった。巣を取るか、焼きつくしてしまうまで、何度も挑戦した。 蜂の子を取っても、鶏や鯉の餌にするだけで、大して役立つものではなかったが、とにかく見つけたら挑まないでは気の済まない兄であった。蝮も大人たちがしりごみをする代ものだが、彼はあっさり捕ってきて、焼いて食べた。
皮を剥いだのを蕗の葉にくるみ、焚火の下の熱灰の中に埋めてむし焼きにするのだが、私にだけ分け前をくれた。人に横取りされないように、炉端で私が番をしているからであった。  それから彼は、高い杉の木のてっぺんにある鴉の巣から、雛を取ってくることがあった。それを育て手なずけるためで、飼育には私も手を貸したが、一度も成功したためしはなかった。 また早春の堅雪のころになると、彼は友だちをさそってキズボイ(雉子追い。実は山鳥追い)に行った。15山鳥を何度も追いつめ、疲れて雪洞(木の根方にできる穴)に頭をつっこみ動かなくなったところをつかまえてしまうのであった。 一度、私もその仲間に加わったが、追われた山鳥は兄のいった雪洞に間違いなく突きささり、素手で私がそれを取りおさえることができたのであった。
生き物の習性に通じていて、それらの次の行動を予見する能力を、この兄は持っていたようであった。  昭和六年の冬から、冬季分教場の教師が長兄に代わった。長兄の学歴もT先生と同じ小学卒であったから、授業の内容は大差がなかった。が、一つ大きく変ったことがあった。それは学校あてに新聞を取ったことであった。 そして世の中の動きを知らされるようになったことであった。それから蓄音機も、この各はじめて部落にお目見えした。やはり長兄が中古品を買ってきたものであった。それにもう一つ、はじめて荷車が造られたのもこの年であった。 稲扱き器械のはずみ車二つを用いて、子供達の手で造られたものであった。道路が狭いため、普通の荷車はたとえ持ちこんでも役に立たなかったが、超小型の手製の荷車は、米二俵を積んで楽々と移動することができた。
新聞と蓄音機と小型荷車、この三つがわが里に黎明を告げる先がけとなった。なお余談のようになるが、雀蜂に刺されて死亡する人が最近ふえてきた。これは五十年前には聞かない話だった。今の人の体がそれだけ脆弱になったのであろうか。 それとも医薬に頼って応急処置を施さないためであろうか。私も子供のころ、二度三度、雀蜂に刺されたことがある。三兄たちの巣退治を遠くから傍観していて襲われたものであった。 それでその痛さが心臓にとどき全身にひびきわたるものであることを承知している。しかしアカザの葉汁をすりこむか、オオバコの葉汁をすりこむことで(それらがなければ、三種の葉を集めてすりこむことによって)、大事にはいたらなかった。 それでも腫れがひどく、両眼をふさいでしまうので、学校は休まざるを得なかったが、医者に走るようなことはしなかった。気力の問題もあろうが、薬草による緊急処置が意外に効果を発揮していたようにも思えるのである。
『三つの夜明け』 了
順序が、多分逆になったと思いますが、前の作品よりオヤジの年齢が、もうちょっと若くなった作品を次に載せます。 なんと、小学校低学年まで、オヤジは自転車や汽車を見たことが無かったようなのです。
随筆『馬の骨』の中から『祭りと飴玉』
 村の中心である向町において、年に二回、祭りがあった。盆の夏祭りと秋の馬市とであった。そして子供たちは、小遣いをもらって、これに出かけるのを、何よりの楽しみにしていた。  大抵の子供は、小学校の一年生になると、この祭りに出かけた。祭りが近づくと、一生懸命に家の仕事を手伝って、一銭かニ銭の小遣いを貰って、祭り見に行った。
しかし私は、仕事の手伝いがまるでできなかったので、小遣いを貰えなかった。それで祭りにも行けなかった。  二年生の夏祭りの時も同じであった。その頃、次兄が入院していたので、母の財布の紐は固かった。一銭たりと理由のない金は出そうとしなかった。  その年の秋祭りに、すぐ上の兄や姉がぶうぶういってくれて、やっと私も一銭の小遣いを貰って、祭りに行くことを許された。そしてこの時、はじめて私は文明社会に接触したのであった。  同級生のA男は、既に祭りを三度も見ていて、私を案内してくれた。八キロの道を歩いて向町に近づいた時、A男はまず汽車を見に行こうといって、私を線路ぞいに停車場へ連れて行った。
折よく貨物列車が入っていて、私ははじめて汽車なるものを傍から見た。車輪の大きさにびっくりして見つめていると、突然汽笛が鳴った。 その音にたまげた私は、一尺ほど地面から跳び上がった。今まで聞いたことのない高い音に心臓が止まる思いであった。そして逃げ出すか隠れるか。何かしなければと思って、傍のA男を見ると、彼は平気な顔で機関車に見入っていた。  貨物列車が去ったので、A男は大道店の立ち並ぶ街の中へ私を案内した。人の波と店の賑々しさに目を剥きながら行くと、向こうの方から人波をわけて座ったままの人が二人、こちらの方へ進んでくるのが見えた。 ヤ、ヤッと私は思った。人の顔をしているが、あの二人は何ものなのか。座ったままで進む人間などは、これまで夢想だにしなかったので、私は呆然と眺めて、突っ立っていた。
チリ、チリンという音を立ててなおも接近してきた時、「あぶない!」といってA男は、私の袖を引いた。「自転車だ」というA男の説明に、私は世の中にはとてつもない機械があるものだと感心すると共に、さっきの二人が人間であったことに安堵した。  私がはじめて電燈の光を見たのは、これよりもなお一年後の、三年生の時であった。一番下の姉が、母を迎えに行こうというので、私はすぐそこまでかと思ってついていった。 ところが萱場を過ぎ、小町川を渡って、月楯を過ぎても母に会わなかった。そして豊田を通る頃には暗くなっていた。14それからとうとう向町に入っていったが、丁度その時であった。未だかって見たことのない、明るいものの下に私は立っていた。 小石の一粒一粒が見え、地面を這う小さな羽虫までもくっきりと見えた。世界にはこのように明るいものがあったのかと思うと、背筋がぞくぞくしてきて、明るい円の中からぬけ出せなくなった。
姉が先に行っていて、早く来い、来いとせかしたが、私の足はなかなか動かなかった。  この時代の外灯は、タングステン電球の、二十燭光か四十燭光くらいのものであったと息う。従って今から思うと、それほど明るいものではなかった。しかしランプと蝋燭の光しか知らない私にとって、それは途方もなく明るく眩しいものであった。  その頃、わが里は幕末か明治初年頃の文化の程度に眠っていた。機械と呼べるものは、柱時計ぐらいしかなかった。それで見るもの聞くものが、すべて珍しかったが、わけても汽車と自転車と電燈の三つが、私を驚愕させた文明の代表であった。  それはともかく、話をニ年生の秋祭りの時に戻そう。
 その祭りで、私ははじめて銭を使った。A男と共に、大道店をさんざん見て回った末に、結局は飴玉を買って舐めた。こう書くとたいへん簡単になるが、実はそうではなかった。  「一銭ガナ、アメコケロ」という科白が、そう言えば売ってくれることがわかっていても、なかなか私のロから出なかったのだ。はじめての外国旅行者が、言うべきセソテンス(文章)がわかっていても、なかなか口から出ないというが、それと似ていた。 A男はそれと知らず、気に入ったものが見つからないので、私が銭を使わないと思い、方々引っぱり回したのであった。後でやっとそれと気づいたA男が、私に代って飴玉を買ってくれたのが、真相であった。  夕方、家に帰ってから分ったことだが、母はA男に、私から離れないよう、みっしりと頼んでやったということであった。彼の親切心からと思っていた私は、同級生からお守りをされたことがわかり、さすがに気恥かしい思いにかられたのであった。    (57・9)
ここから舞台は『戦争資料館』なったので、オヤジのすぐ上の三兄の沖縄戦に話を移します。
随筆『馬の骨』の中から『権化の最期』
権化の最期

 私はここで、動物たちの行動に精通した三番日の兄の、その後の生涯について語っておきたいと思う。
 彼は高小卒後、家業を手伝っていた。農業が好きであったし、周辺には生き物たちも豊富で、十分に満足できた。町の人ごみに出てゆく気など全くなかった。昭和十四年に私が村山農学校に入学した時も、羨望の気配すら見せなかった。
家郷を後にしなければならない私を、むしろ憐れむような目で見ていた。しかし夏休みに私が一番の成績の通知簿をもって帰り、長兄の称賛を浴びた時には、はじめて感情を動かした。 俺もこのままでは取り残されると思ったのか、この時から彼は勉強をはじめた。廂(ひさし)の小部屋にこもって、夜遅くまで蝋燭の灯で本を読むようになった。  そして翌年に上山国民高等学校(のちの上山農業高校)に入学した。二年間の乙種中等学校で、内ケ原の加藤寛治の影響を強く受け、開拓精神を叩き込む学校であった。 三兄は、休暇には内ケ原の講習に参加したりして、色々な経験を積んで家に帰った。そしてすぐに軍人を志願し関東軍に入った。
 軍人になった三兄は、水を嶋た魚のように、持っている能力を存分に発揮したようであった。特に鉄剣術が強く、昭和十六年の春には関東軍の代表になり、内地代表と対戦するため一時帰国をしてきた。 私は山形高等学校の二年で、後藤家に養子になったばかりであったが、そこへ不意に訪ねてきた。 「関東軍といえば、何万も何十万もいるんだろうが、試合で勝って代表になったわけか」と聞くと「そうだ」とすずしい顔で答えた。私は入学時から柔道部に入っていたが、一度も試合に出してもらえなかった。 従ってまだ人に勝ったためしもなかった。それだけに三兄との運動神経の差の大きさを認めないわけにはゆかなかった。その時の彼の階級は伍長であった。
 翌十七年十月に、私は繰り上げ入学で、東大の文学部に入った。養母が医者の未亡人で、医学部進学を強く望んでいたが(当時は医学部医学部志望者が少なく、文科からでも無試験で簡単に入学できた)、しかしあくまで私の文学部進学に反対することもしなかった。 そして時を同じくして三兄も、陸軍予科士官学校の助教になって、埼玉県の朝霞町に赴任してきた。その時の階級は軍曹であったが、一ヵ月も経たないうちに曹長になった。 軍曹から曹長になるには五年も十年もかかるのが軍隊の常識とされていたが、三兄の場合は異例なスピード昇進であった。まだ童顔で、私の方が兄貴と間違えられるような三兄に、曹長の襟章と長い軍刀は似合わしくなく、借り物のように見えた。  戦局がいよいよ険しいものになり、訓練も多忙になったためか、三兄と東京で会う機会もなくなっていった。そしてたびたび手紙をくれるようになった。その手紙は国情を憂え人心を案ずる内容のもので、軍人精神に凝り固まっていた。
陸軍省のお偉方が見たら満点をつけたであろう内容の手紙を貰うたびに、私は返事に窮した。  当時の陸士関係者は、東大を誤解していた。天皇機関説を生んだということだけで、敵視する人さえいた。日本精神を消滅させようとする皇国滅亡の教育を施している−−その元凶は東大だと広言する軍高官もいた。 そして三兄の恩恵もそれに近いものであった。次代を担う軍人のエリートを教育する仕事について、その思想はますます強固に磨きがかかってゆくようであった。一学生の私の弁明などに耳をかす余裕はなかった。  昭和十八年に、文科系の徴兵延期が停止になり、十二月に私は盛岡の工兵隊に入隊した。そして幹部候補生になり、翌十九年の五月に松戸の工兵学校(予備士官学校)に移った。それから九月に、訓練途中の身で、南方軍に転属になった。
輸送の困難さが強まる一方なので、卒業を待たずに残りの教育を戦地で受けさせるための転属であった。九月十四日、われわれ二百名ほどの者が、工兵学校をあとにして、輸送船の待つ門司へと向かった。  丁度そのころ三兄は海上挺身隊を志願し、予科士官学校を離れた。戦況が日毎に敗勢に傾くのを座視できなかったのであろう。長年培った軍人精神を、実践にうつす決意のもとでの志願であった。そして海上挺身第二十七戦隊に所属し、戦隊本部付きとなった。 戦隊長は陸士五十二期の岡部少佐であり、三箇中隊で総員百四名をもって編制されていた。うち九割までが下士官であったが、三兄はその最右翼に位置して、戦隊長を補佐した。 江田島で訓練を重ねた戦隊は、十二月末に沖縄の中城湾に入港し与那原に本部をおいて作戦準備に入った。沖縄には既に第1、2、3、4の四戦隊が配置されていたが、それに新たに第26、27、28、29の四戦隊が追加配置されたものであった。
四月一日、ついに米軍は沖縄に上陸を開始した。日本側の大方の予想した東側中城湾からの上陸ではなく、本島西海岸からの上陸であった。  大艦隊をもって上陸した米軍は、攻勢をつづけ、わが軍の主陣地帯においてさえ、一日百bの割で前進した。そして一カ月経つころには、前線師団の兵力が半壊するほどの損害をわが軍に与えていた。 軍司令官牛島中将の憂愁も深刻なものがあった。このままの推移にまかせれば、戦力は次第に消耗し、やがて組織的な作戦が不可能になるであろうと判断した牛島中将は、ついに全軍攻勢を決意した。五月四日が、攻勢の予定日であった。  じりじりしながらその日を持っていた挺進隊員たちはふるい立った。そして攻勢の先駆として、五月三日の午後十時に、米艦船をめがけて発進した。
長さ五・六b、幅一・八b、厚さ〇・九_のベニヤ製モーターボートに、二四〇kgの爆雷を塔載しての玉砕肉迫攻撃であった。 同時刻に発進した二十七戦隊の艇は、本部四隻九名、二中隊三隻六名、三中隊八隻十六名の、都合十五隻で隊員数は三十一名であった。三兄は戦隊長と共に本部の一艇に乗りこみ、発進して散華した。 軍人精神の権化と化していた三兄にはふさわしい壮烈な最期であったと言えよう。  そのことは、その攻撃に加わり艇故障のため海岸に泳ぎついて辛くも生還した第三中隊長の伊藤正氏(中尉、陸士57期。湯沢市在住)から、兄の三十三回忌の折りに知らされた。
その手紙には「阿部曹長(三兄のこと)とは幸之浦の訓練基地で初めて一緒になりましたが、予科の助教からの転属ということもあって、私たち、戦隊長、中隊長等陸士出身者にとっては、恩師としての親近感があり、いろいろとお世話になりました。 また人格識見共に秀で、戦隊員の中でももっとも人望のあった方でした」という文書が記されていた。 それから五年経って、今回いただいた手紙にも「阿部政蔵さんには随分とお世話になりました。温厚篤実な人柄は、優れた才能とともに戦隊の要として重きをなし、予科士官学校の区隊長より転じた阿部戦隊長の片腕として信頼も厚く活躍しておりました」と、三兄を賞揚する言葉が記されていた。  ちなみに五月三日夜から四日にかけでの攻勢は、事前に敵から察知されたものか、したたかな反撃にあって、逆上陸軍も壊滅的な打撃を受け、軍も一歩も前進ができなかった。のみならず主力をあっという間に失う結果を招き大失敗であった。
第二十七挺進隊も、当初は海上で集合した上、一斉攻撃に移行する予定であったが、米軍は発進地に連続して照明弾を打ち上げて集合を不可能にした。 そのため単艇行動を余儀なくされたものであったが、にもかかわらず駆逐艦一隻、大型上陸用舟艇及び大型輸送船それぞれ一隻音撃沈したと、戦史は伝えている。  戦局の起死回生を夢みた若武者たちにとって、敵の壁は余りに厚く、かつ強靭であったことを嘆ぜずにはおれない。
(59・2)
『権化の最期』・・・了