庄内藩戊辰戦争 天童の戦い(織田藩御陣屋跡)

  


山形の維新にも会津、函館のようなドラマがいっぱいあったのである。

下記 庄内藩天童藩の維新戦争 天童炎上  拙文にて田鶴町おわり

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庄内藩天童藩の維新戦争 天童炎上

 九条道隆奥羽鎮撫総督を担ぐ薩長軍は三月二十三日仙台に入った。その時、どうしたわけか薩長軍は我らが天童藩主織田信学に奥羽平定の先導を命じたのである。薩長軍は
 「織田家は名門だし長いこと徳川からないがしろにされていたからちょうど良い」
 と考えたのだろうか。は、さておいて、ここで悲劇の武将、吉田大八が藩主名代として登場してくる。大八は15歳で父の後を継ぎ、大目付、武具奉行、養正館督学などの要職を経て1867年(慶応3年)中老に昇格する。要職を歴任する中で、藩校の改革を図り、藩の財政難対策に取り組んだ。当時、財政困難が極まった天童藩の貧窮にあえぐ下級の藩士の救済策の一つとして、藩士が将棋駒を製作することを取り入れたのも大八。当時どの藩でもそうであったように佐幕派、勤皇派の対立が天童藩にもあったらしい。三十代後半にさしかかっていた吉田大八は勤皇派のリーダー的存在である。官軍から天童藩主織田信学が奥羽鎮撫使先導の大役を命ぜられた時、天童藩は名誉と同時に、その任務の困難さから困惑さを感じたに違いない。
 「信長様以来埋れていた織田家が再度歴史を飾ることができる」
 と思った藩士も多かったはず。逆に会津や庄内に親戚のいる武士たちは
 「こりゃ大変なことになったわい」
 ややこしいことにそのどさくさの中、織田信学は藩主を十代のせがれ信敏に譲り隠居、その名代として吉田大八が仙台へ行き先導役を仰せつかる。
 九条総督とやはり公家の沢為量副総督から
 「先導役よろしゅうお願い申し上げますえ」
 と労われたまでは良かったが
 参謀大山格之助から
 「大八どん、敵は庄内藩。働いてもらわんといかんごわすな」
 と釘をさされて、勤皇だが和平論者の大八は銅像のように青くなった。沢為量奥羽鎮撫総督副総督と天童に入った大八は庄内藩と直接戦闘にならないようにいろいろ根回しをやったらしい。江戸時代今の大江町、朝日町は庄内領だったので天童藩、庄内藩の間にはいろいろしがらみもあったと思われる。大八の和平工作に業を煮やした大山参謀、沢副総督へ
 「このままじゃあ埒があかない。新庄藩を引き連れてちょっと庄内に火つけて来ていただきたくごわす」
 「ほな、行ってまいりますえ」
 沢さんは少数の兵を引き連れて新庄へ向かう。錦の御旗の威力で新庄藩に出兵させ清川へと走った。なんとしても開戦したかった大山のでっちあげた庄内藩の罪状は「柴橋陣屋からの朝廷米の略奪」であった。柴橋陣屋はずっと徳川幕府の天領。庄内藩から言わせれば自分のもの。まあ水をかけあいながら(水掛け論のこと)清川口の戦いは開始されたのであった。
 戦いは庄内軍が薩長、新庄軍を撃退。やはり徳川四天王の末裔は強かった。この官軍の奇襲を知った庄内藩重鎮、松平権十郎、菅実秀らは激怒。
 「ぬぬ、許せん。薩長どもを追い払ってしまえ。天童藩も手向かうなら討つしかなかろう」
 と家老酒井兵部へ出兵を要請。兵部は六十里越街道を二日がかりで踏破し天童に襲いかかる。やはり庄内藩の強いこと強いこと。またたくまに天童を焼き払ってしまう。ここで仙台まで追いかけなかったのは伊達の仙台藩等との政治的な事情が許さなかったからだろう。酒井兵部ら庄内軍は天童を炎上させた後ただちに長瀞や楯岡で兵を休ませ、鶴岡に帰還。天童から車で10分くらいの長瀞藩は庄内酒井家と縁戚関係になるが、まったくいい迷惑を被る。どこかに身を隠していた吉田大八が新庄から帰還した薩長軍とともに長瀞城を襲ったのだ。天童を焼け野原にされた大八としては大山らからのプレッシャーもあり、もはや引くに引けない襲撃であったろう。天童の仕返しに長瀞城を炎上させ奥羽の戦いは一息をつく。奥羽の勤皇方の諸藩に
 「庄内は強い。このままでいいんだろうか。佐幕になったほうが得なんじゃあ」
 の雰囲気が漂い始める。諸藩は談合を重ね列藩会議を開き、会津藩赦免の嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出することになる。しかし、却下され官軍として出兵していた自藩の軍を引き上げてしまう。
 時を同じくしてもう一人の姉歯、仙台藩士「姉歯武之進」が傲慢無礼さで悪評をかっていた奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵を斬首。ここに奥羽列藩同盟が確立される。
 ここで官軍先導役を務めた天童藩の処遇が問題になる。すっかり佐幕派の敵役になってしまった吉田大八は、身を潜めていたがこのままでは天童藩が列藩同盟から滅ぼされてしまうと決意。
 米沢藩に自ら捕らえられ、6月18日天童小路の観月庵で切腹して果てる。 享年37歳。天童佛向寺に葬られる。