東交民巷  
2006/10/06

北京の55日の舞台

クリックすると大きい写真

 

華北交通本社は現在の北京飯店新館になっていたのだった

1.Tzu-chin Ch'eng.
2.Tsung-jen J-u.
3.Li-pu.
4.Tu-chih-pu (formerly Hu-pu).
5.Li-pu.
6.French Hospital (St-Michel).
7.U.S. American Guard.
8.U.S. American Legation.
9.Netherlands Legation and Guard.
10.Russian Guard.
11.Russian Legation.
12.Russo-asiatic Bank.
13.Banque dc I'Indo-Chine.
14.Hotel des Wagons-lits.
15.German Post Office.
16.Russian Post Office.
17.Hongkong and Shanghai D.C.
18.Yokohama Specie Bank.
19.Spanish Legation.
20.Japanese Guard.
21.Japanese Legation.
22.French Post Office.
23.French Legation.
24.French Guard.
25.French Catholiquc Church (St-Michel).
26.German Legation.
27.Belgian Legation.
28.German Guard.
29.Deutsch-Asiatische Bank.
30.Stores.
31.German Lazaret.
32.Hopkins Memorial Hospital.
33.Electric Station,
34.Imperial Maritime Customs, Residences and Head Offices.
35.Peking Club.
36.Imperial I'osl of China, Secretary's Office.
37.Inspectorate General of Imperial Maritime Customs.
38.Austro-Hungarian Guard.
39.Austro-Hungarian Legation.
40.Italian Legation.
41.Italian Guard.
42.British Legation 
43.British Guard.
44.Portuguese Legation.
45.Chinese Post Office.
46.Hotel de Pekin.
47.Peking Han-k'ou R.R., Head Ofiice.
48.International Banking Corporation.
49.Mexican Legation.
50.Telegraph Office.
51.Hotel du Nord.


写真クリックで大きい写真が新しいウインドウで開きます
戻る場合Xで閉じてください

 この建物はなんだ。なぜ撮ったんだ。何年も解明できなかった謎だったが47の写真が『華北交通』、中国においては『京漢鉄道本社』(北京漢口鉄道)であることが、ある写真から判明した。そうすると47右は東長安街と王府井大街の交差点になるじゃあないか。現在、巨大な北京飯店が建っている場所だ。現在の北京飯店の写真を見てみると48の部分が中央に残って、47の場所には新館のビルがあるんだ。
 星崎定五郎というアメリカ移民の先駆者となる方がおり1940年、売りに出されている北京飯店を20万ドルで買収し、太平洋戦争末期まで、営業を続けたという。新旧二館に分れ、新館は間口75間(約136m)、石造7階建、旧館はそれよりやや小さい建物で、外観内容共に規模広大、まことに堂々たるものであったとのこと。
  41のイタリア兵舎の北側の空地が妙に気になる。後述の粛親王府の北側城壁があった場所を整地したのか。現在のだだっ広い東長安街の原型になっている場所なのである。

 この写真も謎だった。まあ近代的な建物が多く、空地が多いなと思っていたくらいだったが、右上隅に上写真の『華北交通』ビルが写っているのを発見。とするとここは『北京の55日』で有名な『東交民巷』じゃあないか。地図の37、40は地図と同じ形の建物が写真に残っている。37は中国の海軍関係の事務所、40はイタリア公使館、35の場所が北京クラブとなっている。24はフランスの兵営だった。40の左に日本公使館や兵営がある。
 1858年、『天津条約』に基づき帝国主義の列強は北京に大使館を開く。1901年、『辛丑条約』によって東交民巷は本格的な治外法権地域になった。
 1937年の盧溝橋事件から1945まではほとんどが日本の支配化におかれたとのこと。
 1900年の統計によると、市街区の人口は80万人弱であった。

3枚の写真を貼り合わせたワイド写真。いったいなんの建物か上の航空写真と同様にまったくわからなかったが、志波さんの職場だったんだ。納得

 玄関の前にロータリーがあり、その中央にあった噴水だ。
京漢鉄道について
 中国の北京と広州を結ぶ南北縦貫鉄道の北半部をなし,北京−漢口(武漢)間の全長約1,220kmをいう。1898年(光緒24)2月,清朝政府とベルギー政府間の借款によって着工され、義和団事変の時、連合軍によって北京・蘆構橋間が増設され、1906年(光緒32)全線が開通した。経済的に有利な鉄道であるため、清朝政府は新たな借款で1909年(宣統1)1月,国有化した。民国初期の軍閥混戦のなかで,呉佩孚はこの鉄道を軍費財源として利用し,1923年(民国12)2月におこった鉄道労働者のストライキに対しては軍隊を用いてこれを弾圧した(二・七事件)。以後戦争の被害で機能は低下した。

東交民巷教堂(多分地図25)
 文化大革命では格好のターゲットになり、紅衛兵により教堂内のみごとなステンドガラスは壊されてしまった。また中央のゼウスかイエスの像は右の方にもう一体存在しているのだが、現在は色の白い東洋っぽい頭の大きい像が飾られている。写真の像が文革でやられたのかどこかに保存されているのかは不明。中央上部のキューピットは現存している模様   
A 
 B  

 北清事変の写真の中に、前門周辺の連合国軍のスナップ写真がある。その中にこの写真に写っている凱旋門のような小さい門があるのだ。前門からの距離は100〜200mくらい。前門の西側のような気がする。
また、その後北清事変の時の絵葉書の中にこの門が左右に2つ並んでいるものも発見した
A 

DEUTS の文字からするとドイツ公使館?
ドイツといえばラーベ ここにいたことがあったかなかったかは闇の中

すべてはこの写真から
 モデルさんはオール阪神巨人の阪神さんと似ている。・・・などはどうでも良いのだが
バックの建物に門標が写っていて『華北交通』の文字がかすかに読み取れるではないか。
むむむ・・・   ・・・なあるほど  とあいなったのであった

華北交通のマークの付いた貨車
手前の盆栽はなんじゃろう

数多くの写真の中でマーク発見できたのはこれだけだった


ペッキンの55日


「阿片戦争以来、かってに自国に入ってきてわけのわからない交渉を李鴻章あたりと行い、香港をかっぱらい、上海には租界とかいうものを作り出し、まったく頭に来る。我々は元朝以来5度も反乱を起こしている白蓮教徒の子孫なんだ。最後の蜂起は乾隆59年(1794)だったから100年の節目は過ぎたけど誤差のうちだ。切磋琢磨された義和拳をもってすれば、侵略列強なにするものだ」
 義和団のスローガンは「打富済貧」「官逼民変」「反清復明」だったのだが、西太后が応援してくれるっていうんで「扶清滅洋」に変更されていた。清を倒す運動が、清を助ける蜂起に変更されたのである。
「さあ突っ込め!!」
 だけど、いくら人数が集まって突撃しても連合軍の武器はすごいもんであった。青龍刀や槍でいくら切り込んでも相手の機関銃でバッタバッタなぎ倒されるばかりだ。応援してくれる清朝の軍隊の装備をもってしてもかなわない。
「しょうがないから清人のキリスト教徒をやっつけてしまおう」
 という経緯で義和団の自国民キリスト教徒狩りがおこなわれ、千名がその犠牲となった。
 地図の41から北端の壁に沿って東側の道路まで川島芳子の父親にあたる粛親王府が建っていた。生存者五百名余をタイムズの特派員モリソンが東交民巷内に救助し、粛親王府に収容した。その時の粛親王との折衝にあたったのが若き日の伊丹十三でおなじみコロネル柴であった。会津藩出身の柴五郎は会津落城時九歳、白虎隊の自刃を体験し、逆境の中、中佐までのぼりつめていた。
「親王、どうか難民の収容に力を貸してください」
 柴が頼むと、親王は
「罪もない人がこれ以上犠牲になるのを見ているのは耐えられない。わしの屋敷でよかったら自由に使ってくれ」
 人道的な心やさしい親王であった。親王府に入居するキリスト教徒の中から声があがった
「コロネル、私を戦闘に参加させてください。父も母もやつらに殺されてしまった。幼い妹や弟を守りたいんです」
 思わぬ義勇兵の出現に、どのように彼らを守ろうか思案していた柴はひとすじの光明を見た思いがしたのであった。義勇兵の数は膨れ上がっていったが、銃の割り当てを考え三十人くらいに抑えたのである。
 小康状態が六月十九日破られた。清政府が外国人全員の北京退去を命ずる通牒を出し、抗議に赴いたドイツ大使ケットレルが清国兵にいきなり銃撃され、即死したのである。
 二十日午後から、清国軍が公然と攻撃を始めた。近代装備を持つ清国軍は大砲まで持ち出し、東交民巷を砲撃した。
 最初の2日間の戦いで区域の東北端(地図38、39)に位置するオーストリー とベルギーの公使館が火を放たれて焼かれた。西正面と北正面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻撃を受けると、そっちに移動してしまった。北正面の粛親王府はがらあきとなり、少数の日本兵やキリスト教徒は孤立無援。絶体絶命の危機をむかえたのである。
 柴は少ない兵での防御を考え、迷路のような巨大な粛親王府を徹底的に分析していた。見晴らしの良い高台に偵察人員を置き、どこに義和団の主力がいるか報告させ、攻撃の集中する場所に効果的に人員、武器、弾薬を送り込んだのである。それはまさに迷路を最大限利用したペトコン戦法。義和団、清軍が西側から攻めると、逆に集中砲撃を受け、守りの薄い東側に兵力を集めて攻めようとするとそこの城壁の上にはさらに強力な守備隊が存在しているといったあんばいである。会津城の落城を子供ながらに目にしている柴は、あの時こうすれば官軍をやっつけられたのにとか考え抜き篭城戦の権威者となっていたという推測も出来る。
 その時、各国救援部隊はなにをやっていたか。6月10日英国東洋艦隊司令長官シーモア中将は8ヵ国連合陸戦隊約2000名(日本軍52名)を指揮して北京救援に向かったが、郎坊付近にさしかかったとき、北京方面から来た清国兵と武装蜂起した義和団のため包囲され目的を達せずに天津に退却せざるをえなかった。ここに清国軍と列国軍艦の砲撃戦を序曲に天津城の戦いが開始された。6月20日過ぎから各国の援軍が次々天津居留地に到着、激戦のすえ7月14日天津城は連合国により解放された。19000名まで増員された連合軍は8月4日北京に向け進撃を開始。こうなると兵器の差で清国軍や義和団がかなうはずはない。13日夜北京城攻撃開始、8月14日英軍が公使館区域に到達、公使ら一行は、55日ぶりに無事救出されたのであった。


 北京篭城時は機関銃側だった日本軍は4年後、旅順二百三高地において義和団と同じ運命をたどったのであった。
 いつも思うのだが突撃兵に鉄板の楯をもたせられなかったのだろうか

・・・・・フィクションの部分多いので歴史資料とは考えないでください

編集後記

 まず47の建物が『華北交通』ビルと判明し、その場所を地図で確認している途中に『東交民巷』の場所がわかりました。そして上地図の原本を発見し、航空写真と照合すると多くの建物や道路などまさに地図のとおりに当時存在していました。
 地図はそのまま載せるのはちょっとはばかられるので書き直してみました。 北清事変後、連合国から再占領され整備された後の1912ころの地図のようです。事変後粛親王府は東四十四条に移転し、ここからは完全になくなってしまいました。日本とイタリア大使館、日本兵営として再開発されたとのことであります。