戊辰戦争 金山の戦い


2019/08/14

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1968年7月4日、久保田藩(秋田藩)城内では、勤皇派と同盟派が激しい口論 「そもそも勤皇って思想には、わが藩出身の平田篤胤先生が、大きな影響を与えているのだし、奥羽鎮撫総督府の沢副総督が、ここにいるのだから、官軍となるべきだ」 「いや、奥羽越列藩同盟に加わっているのに、裏切るのは、卑怯者の謗りをまぬがれないし、あの最強軍団、庄内藩と戦争して勝てるわけがなかろう」 口論は、勤皇派やや有利。そんな不穏な空気を察知した仙台藩は
「どうなってるんだ?佐竹の殿様、戦国時代、おらほの正宗公から、こてんぱに負けた腹いせに、ここで、仕返ししようというのか。ちょっと見てまいれ」と、使節を派遣した。 長州の世良修蔵にひけを取らない乱暴ものとして知られ、薩摩藩の寺田屋事件で追っ手として活躍した、大山格之助が 「やっちまえ、薩摩が付いてるからだいじょうぶだぁ!!」と勤皇派をあおる。 西郷隆盛が徳川家の政権への参加を求める山内容堂を「刀の一本あれば済むこと」と脅迫したことを知っているし、
隆盛より格段ガラの悪い格之助のこと「やっちまわないと、ここにいる官軍総力をあげて、そちたちを討つ」とかなんとか脅したのかもしれない。 高揚した久保田藩勤皇派の若い連中は、仙台藩使節の志茂又左衛門以下11名を殺害し、久保田城下に首をさらした。 それに激怒した仙台藩、秋田戦争が始まった。久保田藩は同盟を離脱し、奥羽鎮撫隊の庄内討伐に加わった。 鎮撫軍は7月6日秋田を出発、7月11日、久保田藩領から3方向に分けて金山に攻め込んだ。
主寝坂峠の同盟軍に攻め込もうとする鎮撫軍は、同盟軍を攻撃するものの攻めあぐね、及位村の民家を焼いて院内に下がることにした。 この戦いで同盟軍は台場を築き、射撃で鎮撫軍に抵抗したのであった。 その台場の一つが史跡として旧主寝坂トンネルの北側に残っている。この写真がそれです。 桂太郎を隊長とする一隊は、院内銀山から前森山(785m)の西側にある山道を踏破し、
早朝、旧及位から2kmほど西の鏡沢集落(及位と大滝の中間)にいた仙台藩兵に攻め込んだ。 鏡沢は仙台藩と新庄藩が守っていたが、鎮撫軍に内通していた新庄藩がこの時に仙台藩を裏切った。 仙台藩は潰走し、桂太郎隊は金山の近く、薬師山(436.8m)の北東にある森合峠へ進攻した。 大山格之助を隊長とする薩摩藩と佐賀藩の合同部隊は7月10日に出発し、
有屋峠近くの間道を進み午前8時頃、有屋を攻撃した。 川の南北にいた約200人の同盟軍兵を攻撃、同盟軍は不意を打たれ敗走した。 その後、金山から進撃してきた仙台藩兵200人程度と稲沢村で戦闘に入った。 4時間程度戦闘を行い、仙台兵が退却する気配が見えたので声を上げて討ち入ったところ、
金山は銀山口から進軍した部隊が既に攻め込んでいた。 さて、紙面が余ったので、佐竹家の、優柔不断ぶりを、関ヶ原の戦いまで、さかのぼって調査してみましょう 慶長5年(1600年)、佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見をまとめられず、在国のまま観望するという中立的な態度を取った。 戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602年)の3月に義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。
ところが5月8日、家康から突然出羽国への国替えを命じられ、 7月27日付で石高の明示・内示もなく秋田・仙北へと転封された。 関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためといわれている。 石田、上杉に、少しは靡いても、歴史に残る戦闘は行わず、徳川家康陣営として徳川秀忠に加勢して、
上田城の真田昌幸を攻めたのでした そして、徳川家康が勝利すると、石田、上杉と仲良くしたことを、謝罪しに家康のとこに行ったのだそうです 268年前の1600年にも、ふらふらと蝙蝠状態。戊辰戦争でも同盟軍を裏切り、はっきりしない殿様ではありました
及位から南下する官軍に押されながら、仙台藩、米沢藩、上山藩を中心とする同盟軍は中田村まで戦闘しながら退いたが、敗走
金山付近には仙台藩第六大隊長の梁川播磨を隊長とする仙台兵が本営を置いていた 山形藩や上山藩兵を右翼に、新庄藩兵を左翼に森合峠に布陣していたが、 ここでも新庄藩兵は戦線を離脱し仙台兵を攻撃した。 仙台藩兵の主力部隊は金山中心部まで退却するが、
有屋峠からの鹿児島藩兵らにも攻められ、播磨は現在金山町役場がある十日町付近で負傷してしまう。 その後、三本松へ逃れるものの鹿児島藩兵らに発見され、応戦したが 堰に足を取られよろめいた瞬間、斬りつけられて壮絶な最期を遂げた。 梁川播磨を含む仙台兵33人が戦死した。
隊長の播磨と副将の五十嵐岱助の首は塩漬けにされ、秋田でさらし首にされた。 使節11人、梁川播磨ら33人、あわせて44人も殺されて、仙台藩は怒り心頭に達した。 そもそも、戊辰戦役において、仙台藩は1200名もの戦死者を出して、会津藩の約3000人の次の数になっている。 秋田戦争の当事者、庄内藩は330人、連戦連勝の裏にはそれだけの犠牲者もいたのでありました。
秋田藩は450人と、庄内藩に、こてんぱにやっつけられて、久保田城まで追い詰められた割にたいしたことはありません。 新庄藩も、裏切ったり、逃げたり、走り回った割りに、うまいことやっていて50人くらいしか戦死していません。 信頼関係を裏切ったりすると、このように150年以上経っても、野次馬から、ぼろくそに言われるのです。 播磨さんは金山戦で新庄藩の寝返りに遭い、壮絶な最期を遂げたと書きましたが、「身体疲労身数創を受け、
軍監五十嵐岱介もまた負傷したるを顧み、路傍の渓谷間に到り、五十嵐と交刺して死す」と書いてあるものもあります。 享年37歳。郷里の招魂碑には自作の詠が添えられているそうです。 『慕ふそよ 過ぎしむかしの数々を 数ならぬ身を是にくらへて』 その頃、われらが酒井吉之丞はなにをしていたか?
7月11日の真夜中に、庄内藩の二番大隊は楯岡を出発して、羽州街道を引き返し、尾花沢を通り、舟形に到着した。 到着すると吉之丞は、すぐに軍議を開いた。 そこで、軍議の方針は、即時の新庄城の攻撃と庄内藩一番大隊の到着をまって共に、新庄城を攻撃するかとい二つに割れた。 結果は即時の新庄城攻略に決まったが、結局7月12日の攻撃開始になり、舟形に宿陣した。
いよいよ7月12日から酒井吉之丞の久保田城へ向けての快進撃が開始されようとしております。 『戊辰戦争 金山の戦い』は以上で幕を閉じますが、 ちょっと、2019年09月04日、歴史秘話ヒストリア『西郷隆盛と最後まで闘った男 酒井玄蕃』という番組について 番組紹介のポスター、テロップは、福山雅治みたいなイケメン若武者の写真が中央に、
向かって左に空想の西郷どんの絵、右に、亡くなる前の酒井吉之丞(玄蕃)の写真になっています。 NHK山形の某若手ディレクターが酒井玄蕃の戊辰戦争での連戦連勝を知って、 私と同様に『庄内藩と酒井玄蕃をメージャーにする会』NHK山形支部を結成し、本社と掛け合ったのでしょうか とにかく『庄内藩の戊辰戦争と酒井玄蕃』を、知るためには、すばらしい資料になる放送でした。
鶴岡の致道博物館の中の一室が戊辰戦争についての資料室になっていて、スナイドル銃や破軍星旗など見れますが もう一部屋増やして、あの『西郷隆盛と最後まで闘った男 酒井玄蕃』を視聴できるようにしたら、ワァーッと有名になるはずです 現在の酒井のお殿様、どうか、お願いします ここからWik引用で『金山の戦い』の年表
1868/ 04/12 戊辰戦争時、新庄藩の藩論は勤王に一致していた。
1868/U04/23(Uは閏) さらに閏4月23日、副総督の澤為量が薩長を中心とする討庄軍を率いて新庄に入り本営を置いた。 1868/ 05/01 5月1日、沢副総督は、奥羽越列藩同盟が成立して新庄藩もそれに参加したため、孤立することを恐れ新庄藩から脱出して久保田藩に向かった。 1868/ 07/04 7月4日、久保田藩は大山格之助の命令で、仙台藩使節の志茂又左衛門以下11名を殺害し、久保田城下五丁目橋に首をさらした。このことで仙台藩は怒り、秋田戦争が始まった。 1868/ 07/06 鎮撫軍は7月6日秋田を出発、
1868/ 07/10 10日の夜明けに横堀に達しここで軍議を開いた。ここで、左翼隊(佐賀兵2小隊、薩摩兵1小隊と大砲1門)は役内から有屋峠を越え、有屋を経て金山にいる敵を攻撃すること。 1868/ 07/11
鎮撫軍は7月11日、久保田藩領から3方向に分けて金山に攻め込んだ。
 
1868/ 07/11
大山格之助を隊長とする薩摩藩と佐賀藩の合同部隊は10日に出発し、
久保田藩領の役内を午後4時に立ち有屋峠近くの間道を進み午前8時頃、有屋を攻撃した。
1868/ 07/11
金山付近には仙台藩第六大隊長の梁川播磨を隊長とする仙台兵が本営を置いていた。
山形藩や上山藩兵を右翼に、新庄藩兵を左翼に森合峠に布陣していたが、ここでも新庄藩兵は戦線を離脱し仙台兵を攻撃した。
1868/ 07/11
残りの列藩同盟軍の兵士の多くは、西の山中に分け入り与蔵峠などを越えて、
庄内藩領の坂本や出羽松山藩領の荒興野まで40km近い距離を逃げたという。
1868/ 07/11
庄内藩動静 7月11日の真夜中に、庄内藩の二番大隊は楯岡を出発して、羽州街道を引き返し、尾花沢を通り、舟形に到着した。
1868/ 07/12 そこで、軍議の方針は、即時の新庄城の攻撃と庄内藩一番大隊の到着をまって共に、新庄城を攻撃するかとい二つに割れた。
 
1868/ 07/13 新政府軍が舟形の庄内軍に攻撃を開始した。実際には、庄内兵と戦ったのは薩摩兵と新庄兵で、他の軍は敗走した。庄内藩の完勝であった。
以上、引用終わり ということで、舟形の戦い、新庄合戦へと舞台は移っていくのでありました 1968年4月には、山形県内の庄内藩以外は、ほとんど官軍で、本拠地は新庄 5月1日、沢副総督は、奥羽越列藩同盟が成立して新庄藩もそれに参加したため、孤立することを恐れ新庄藩から脱出して久保田藩に向かった。官軍の本拠地は秋田になった
7月4日、久保田藩は大山格之助の命令で、仙台藩使節の志茂又左衛門以下11名を殺害し、久保田城下五丁目橋に首をさらした。このことで仙台藩は怒り、秋田戦争が始まった。 それで、秋田県から山形県へワーッと薩長、久保田藩、新庄藩が攻め入った。真室川の及位で奥羽越列藩同盟軍がやっつけられ 金山で、激戦が繰り広げられて、奥羽越列藩同盟軍が敗北、官軍は、新庄から舟形まで兵を進めた・・・そして、明後日13日には、酒井吉之丞から、こてんぱにやっつけられることになるのであった
以上、金山の戦いの流れでした
金山町は金山小学校の周りだけじゃなくて、いろいろあるのでした 『戊辰戦争 金山の戦い』了