佐倉藩・柏倉陣屋跡


2018/06/09

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長い峠を越え河を渡ったところで、「與七郎、向こうに三角の山が見えるだろう。その山のふもとが御陣屋だ」と父が言った。 田内與七郎成伸は山形市平清水の窯業の救世主となる柏倉陣屋の名代官 柏倉陣屋は、総州佐倉城主(現千葉県佐倉市)堀田11万石の内、約4万石の山形分領46ケ村を支配する役所でした。 今の柏倉の小字「舘」(宿島、塩幸田の一部)周辺にあった
表門は、今の児童館の南西辺りに東向きにあり、門の前は広場で「高札場」(今の掲示板)と呼ばれていました。 陣屋のおよそ真ん中に稲荷様があり、今の堀田永久稲荷神社がそれで、陣屋時代からある唯一の建物です。 ここが堀田藩の陣屋になったのは、宝暦13年(1763)、その年、神社は建てられました。 明治4年(1871)、廃藩置県で陣屋廃絶、9月には諸施設すべて取払われましたが稲荷様だけは堀田様の所有として残りました。
柏倉陣屋とか堀田家についての、いろいろな資料は、柏倉八幡神社宮司で郷土史を研究している結城さんが書いているものが多いようで、 参考にさせていただいています。
戊辰戦争、春の戦いで、柏倉陣屋は、倒幕軍。山形藩水野家の仲間として、中山町の達磨寺に出兵して、庄内藩と戦いました。 そのわずかな兵隊の中から、安達盛篤という戦死者が出ているらしいです。 鎌倉時代初期の武将、鎌倉幕府の御家人、鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖である安達盛長(藤九郎)が、このあたりの安達姓のル−ツだと、ある先生から聞いていました。
西山形の国道沿いに『安達藤九郎盛長碑』というのがありますが、それによると、源頼朝の初期の戦い 柏倉、村木沢、千歳山公園などで『堀田』の字が読める石碑を数多く目にします。 話は安達姓に戻って、山形東高出身の偉人として、国際司法裁判所判事の安達峰一郎博士がいますが、博士の出身は山辺町 柏倉と山辺は、山形市の西側という共通点がありますが、山辺の安達姓のルーツは安達太良山にあるそうで、そこから山辺の西部に移住してきたとのことです。
柏倉の安達さんに、友人がいますので、そのうち
「戊辰戦争で戦死した安達さんは、おたくのご先祖でしたか?」
とかも聞いてみようと思っています。
肝心の佐倉藩は、戊辰戦争で、どっちの味方だったのか ペリー来航以降、正睦は外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走するが、「井伊直弼」の大老就任で、老中を罷免され蟄居した。 父正睦の失脚で家督を譲られた「堀田正倫」は、慶応4年(1868年)の「鳥羽伏見の戦い」後、朝廷から「徳川慶喜」討伐令が下ると、上洛して慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願した。
このため、藩主不在となった「佐倉藩」は藩論がまとまらなかったが、家老の「平野縫殿」が「新政府軍」に与して大多喜藩への出兵を決断したため戊辰戦争後の改易を免れた。 以上、引用終わり。
ということで、結果的に佐倉藩は薩長の味方ということになったようであります。
 
堀田家とゆかりの深い『天台宗七森山明源寺』
寺には堀田相模守正亮、堀田相模守正順の位牌が納められているそうです。また、達暦寺で戦死した藩士、安達盛篤の墓もあるそうです。
前述した、名代官として有名な田内与七郎成伸の墓も夫婦共々建立されているそうです。
話は飛びますが、この佐倉藩柏倉陣屋は、1746年以来戊辰戦争までずっとこの地を治めましたが、この地以外にも、大石田と船町も支配していました。 船町は米沢・山形・上ノ山方面から馬で運ばれてくる年貢米の集荷地で、さらに紅花も出荷されるようになり、商業の発展を遂げました。 物資を船町から大石田経由で酒田まで最上川で運び、酒田から、江戸・大阪に回送し、売り払われたのだそうです。 本領の佐倉まで運ぶ場合もあったと思われますが、佐倉は千葉県なので、その場合は日本海から太平洋に出て、ものすごく長い船旅をして運んだのでしょうかね
堀田家が佐倉に戻った後、山形藩は松平家、秋元家、水野家と、戊辰戦争まで推移しますが、どの時代も、最上川の利権を持った堀田家が、勢力を持っていたようです。
本領の佐倉藩は、倒幕派になって、山形藩は奥羽越列藩同盟の一員。柏倉陣屋の佐倉藩士は、板ばさみ状態になったと考えられます。 討幕軍と庄内藩の戦争が4月に終息し、討幕軍と同盟軍の間では、寒河江の長岡山の戦いが9月に起こるわけですが、そこで、柏倉陣屋がなにをやったのか、しなかったのかは、資料を発見できず、未調査です。 ということで『おたすけ石』を眺めながら『佐倉藩・柏倉陣屋跡』レポート了