寒河江市白岩 洞輿寺 志賀直哉


2026/03/12

クリックすると大きい写真


『機縁 −三浦了覚先生−』は何等分かして写真の上に、管理人のコメントは写真の下に書きました。

機縁 −三浦了覚先生−
 志賀直哉に「山形」という題の短篇がある。名文だが、フィクションらしいところのない小品である。これについては作者も、事実をありのままに書いたと語っているので、一つの体験談と見てよいだろう。
 この中に、Mさんという人物が出てくる。
  顔の長い何処かすっきりした感じの人だった。初めからの僧侶でなく、徳川の旗本で儒教
  で修行した人だったが、後年失明して禅へ入ったという話だった。
  話し振りや様子にも江戸ッ子と.いう風が残っていた。
 と、その風貌をとらえている禅僧である。
 直哉はこのMさんの話を聞かされるため、叔父のいる山形に連れて来られる。そしてMさんの説教を「非常に下らない」と評して叔父と衝突して帰ってしまうのだが、それは明治四十年(一九〇七)か四十一年の出来ごとと思われる。
直哉の二十五、六才の時である。そして「山形」を中央公論に発表したのが、昭和2年(一九二七)一月、四十五才の時であるから、ずい分旧い思い出を書きつづったことになろう。  この「山形」を軽く読んでゆくと、Mさんの説教だけでなく、その人物も「下らない」ように描かれている如く思える。しかしよく読むと、必ずしもそうではないと思えてくる。   「秋になって秋刀魚を憶い出すと一寸東京も恋しくなるね」こんな事をいって笑った。
  「腐るかも知れませんが、お送りして見ましよう」
 というのが、Mさんと直哉の会話だが、そこには江戸ッ子同志として、意気投合する面があったことを匂わせている。
 秋刀魚のような面倒なものを送ろうというのだから、相手を「下らない」人物と、決めつけているわけではない。
 東京の、時代の先端を行く書生に、説教して聞かせるに足る人物だということを一応認めていて、かなりの親近感さえ抱いていたものと感じ取れるのである。  さて「山形」の発表された昭和2年からでも、既に半世紀を経過している。まして明治四十年は遠く、私の生れるだいぶ前の話になる。
 さらに「徳川の旗本」、ちょんまげを結っていたもと武士となると、歴史上の人物としてしか考えられなくなる
 だがそのMさんこと、三浦了覚先生の、私が最後の門弟になるのであるから、人生の機縁は不思議である。  不思議といえば、最近先生に関係した著書が次々と入手できたのも妙である。
 山形の古書店で「禅と武士道」の写本が見つかったと思ったら、東京の本郷で「随処禅師詩文庫」(篠田湖月題)が手に入り、 門人の篠田甚吉氏(湖月)の「私の歩んだ道」も、その遺族から貰い受けることができた。そして改めて三浦先生の身の上に、思いを馳せることになったわけである。  「禅と武士道」の序文には、次の如く先生の経歴が要略されている。   師、姓ハ三浦氏、諱ハ了覚、真応ト号ス。又別号ヲ随処ト云フ。幕府旗下ノ士ナリ。
 師、武門ニ生長シ、文武ヲ兼修シ、茗渓昌平学問所ノ教授タリ。性慷條慨悲憤国事ニ奔走シ、
 
 戊辰ノ際、甚ダ苦節アリ。中年大ニ感ズル所アリ、洞上貫首畔上楳仙大禅師ノ室二入り、磁
 鉄相感ジ、乃チ剃染嗣法諸刹二歴董ス。晩年明ヲ失ヒ、山形市ニ閑居ス。然レドモ博聞強
 記、意気尤モ堅豪、乃チ本宗大本山ヨリ、軍人布教師二任命シ、山形歩兵第三十二聯隊ニ附
 属スルコト十数年、猶ホ博ク官民ヲ教化ス。総テ禅学ヲ以テ武士道ヲ振興スルニ汲々タリ。
 世人称シテ武士道禅師ト云フ。云々
 これは「大正四年……門人記」とあるものであるが、志賀直哉の文とくい違う点もある。すなわち禅門に入ったのが、失明後か失明前かという点である。\n またこの序文には、先生の持ち寺であった寒河江市白岩の洞輿寺(とうこうじ)のことが、何も記されていない。  とにかく戊辰の役(明治元年<一八六八>)といえば、歴史上の事件である。
 それに幕府側の武士として参戦した三浦了覚師と、大正十一年(一九二二)生れの私とでは、どう見ても結ぴつかない感がある。
 それがたった一年間にせよ、師弟の関係で結びついたのは、何よりも先生が稀代の長寿を保たれたが故と思う。
 洞輿寺の境内に建つ先生の巨大な顕称碑には、それ故に私の名前も刻まれているのである。
(45・1・20)